秋の北九州  その2

熊本城
2008.11.23

熊本城は加藤清正が慶長6年(1601)から7年がかりで築いた城で別名「銀杏城」ぎんなんじょう)」とも呼ばれています。





熊本城の玄関口にあたる「頬当御門」
門の後ろには熊本城天守閣も見えてます


沢山の観光客であふれ、
門の上の方だけ写すことができました。
天守閣
現在ある天守閣は昭和35(1960)年に再建された、
鉄筋コンクリート製です。
内部は加藤家、細川家の資料が展示されています。
南大手門
天守閣入り口(左の紋は、加藤家の蛇の目紋、右は、細川家の九曜紋です。)
天守閣よりの展望

宇土櫓(うとやぐら)・・・
西南戦争での戦火をくぐり抜け、加藤清正が熊本城を築城した
当時から、現在まで残っている唯一の多層櫓です。
国の重要文化財に指定されています。
天守閣のように反り返らない直線的な破風(はふ)が特徴で
外観は3層、内部は5階、地下1階建てになってます。



頬当御門の外から見た宇土櫓と石垣の組み合わせです。


 

熊本城本丸御殿(くまもとじょうほんまるごてん)
畳数1570畳、部屋数53。
その中でもひときわ大きい建物が
本丸御殿大広間(ほんまるごてんおおひろま)で、
ここは藩主の居間として使われたり、
部下と対面する場所だったそうです。
昭君の間
実は「将軍の間」??
豊臣秀吉の子、秀頼に万が一のときは、清正は、この熊本城に秀頼を迎え入れ、
西国武将を率いて徳川に背く覚悟があり、そのための部屋が「昭君の間」だったとか・・・。
肥後菊
18世紀末に肥後(熊本)地方で、栽培され発達した古典菊です。花びらと花びらの間に隙間があるのが大きな特徴

首掛石
横手五郎という怪力男が1人で石を首に掛け、
花岡山から熊本城まで2キロの道のりを楽々運んだという
伝説の石です。
加藤清正が植えた銀杏の木です
本丸御殿大広間前にあります

加藤清正銅像

1562年尾張国(おわりのくに)生まれで、豊臣秀吉(とよとみひでよし)とは
血縁関係にあると言われています。

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは「七本槍」の1人に数えられ、
その後も数々の武功を立てました。

天正16年(1588年)清正はそれまでの侍大将から、
いっきに肥後北半国19万5000石の領主を任命されます。
清正27歳のときでした。前年に佐々成政(さっさなりまさ)が
肥後統治に失敗した後を受けたものでした

加藤家は2代44年で取り潰しとなり、その後は代わって豊前小倉より細川忠利が54万石で入り、
以後、肥後熊本は細川家の領するところとなりました。

細川氏は藤孝(ふじたか・幽斎)を初代として3代・忠利から13代・韶邦(よしくに)までが熊本藩主となりました。
藤孝は足利将軍義晴の子とも言われ、1534年(天文3年)の生まれで、
剣術・弓術に秀でた武人であると同時に、茶道・有職故実・古典文学などを究めた文化人でもあったそうです。

藤孝の子・忠興(1563〜1645)は秀吉配下の有能な武将の誉れ高く、宮津12万石と豊後杵築5万石を領していました。
妻は明智光秀の娘・お玉(ガラシャ夫人)です。

1619年(元和5年)、忠興が入道して3男・忠利が家督を継ぎました。

明治10年(1878)の西南戦争では、熊本鎮台司令官・谷千城以下約3400名が守る熊本城を、
西郷隆盛率いる薩摩軍約13000名の50日に及ぶ攻撃を受けますが、落城には至りませんでした。
しかし、この西南戦争の際に天守閣と本丸御殿一体は焼失してしまったそうです。


各階の白壁は軒下部分を除いて、黒の下見板で囲まれており、黒を基調にしたどっしりとした風格が感じられます。
姫路城の白とは、対照的ですね。
豊臣系の城郭は黒色が多いとか・・・年代によって違うのかな?

天守閣に登る階段も、人、人、人、で大渋滞!! 前になかなか進めませんでした。
やっぱり、連休やもんね。
でも、熊本城から一歩でると、混雑がうそのように、静かな街でした。

入園料 500円

JR熊本駅 博多駅からのった特急「リレーつばめ」
所要時間1時間14分
カラフルな市電が、走っていました。
(チキンラーメン模様の市電もあり、ちょっとびっくり)

からし蓮根・・・サクッとして、ちょっぴり辛い
病弱だった忠利の身を案じた玄宅和尚が、
蓮根は栄養もあり増血剤としての
効果もあることを知り、藩の食事を作る賄方(まかないがた)平五郎に
蓮根料理を作らせたのがはじまりとか・・・
以後、このからし蓮根は細川家特製の料理となったそうです。

秋の北九州 その1(太宰府天満宮)
秋の北九州 その3(水前寺公園

秋の北九州 その4(伊万里)

  小さな旅

2008.11.23